
【引用:米国防省】1950年代後半、アメリカ海軍はジェット化が進む航空戦環境に対応可能な、新世代の高性能艦載戦闘機を切実に求めていた。マクドネル社は既存のF3H「デーモン」を発展させ、双発エンジンによる高い信頼性、超音速性能、そして長距離迎撃能力を兼ね備えた新型機XF4H-1を設計。1958年5月27日、同機は初飛行に成功した。その後、ケネディ政権下でロバート・マクナマラ国防長官が推進した「三軍共通化」構想の流れを受け、アメリカ空軍も本機の採用を決定した。F-110「スペクター」として制式化され、後にF-4Cと改称された。ファントムは当初の海軍向けF-4Bから、空軍仕様のF-4Dに至るまで改良が重ねられ、迎撃、制空、攻撃をこなす多用途戦闘機として確固たる地位を築いていった。

【引用:米国防省】F-4は、ゼネラル・エレクトリック製J79ジェットエンジン2基を搭載し、最高速度マッハ2.2、実用上昇限度約3万メートルを達成した。最大兵装搭載量は約8,400kg、航続距離は約2,600kmに及ぶ。初期型では内蔵機関砲を持たず、AIM-7スパローおよびAIM-9サイドワインダーによるミサイル武装を採用した。AN/APQ-72レーダーは最大約100km先の敵機を探知可能で、操縦士とレーダー迎撃管制士(WSO)の2名乗員体制を採用していた。また、偵察型のRF-4など、複数の派生型が存在する。

【引用:米国防省】1965年7月10日、F-4「ファントムII」は北ベトナムのMiG-17を初めて撃墜し、ベトナム戦争への本格的な参戦を開始した。アメリカ海軍機は合計40機のMiGを撃墜し、損失は7機で撃墜比は約5.7対1となった。アメリカ空軍機は約107.5機のMiGを撃墜し、33機の損失で制空権を確立し、全MiG撃墜数の約70%を空軍が占めた。海軍ではトップガン修了生のランディ・カニンガムとウィリー・ドリスコルが初のエースとなり、空軍ではスティーブ・リッチとチャック・デベルビューが6機撃墜で最高戦果を記録した。

【引用:米国防省】初期のF-4は近接格闘戦に弱く、1966~68年にMiG-21との交戦46回で27機を失い、苦戦を強いられた。しかし、トップガン訓練の導入と、M61バルカン砲を搭載したF-4Eの登場により状況は一変する。1972年のラインバッカー作戦では64回の出撃で7機撃墜、損失5機と優位を確保。空対空だけでなく、空対地爆撃、偵察、近接航空支援(CAS)まで担う万能性から、F-4はアメリカ空軍の「スイス軍用ナイフ」と称されるようになった。

【引用:Kangnamtimes】イスラエルは1969年にF-4を導入し、同年11月にMiG-21を初撃墜に成功した。スエズ運河周辺ではSA-2地対空ミサイル陣地を破壊し、アラブ諸国空軍を圧倒した。1973年のヨム・キプール戦争では、F-4がMiGやSu-7などのソ連製戦闘機を多数撃墜し、戦局に大きく寄与した。この戦果は、アメリカ製戦闘機の性能と優位性を国際的に示すものとなった。

【引用:X】F-4は日本、韓国、イラン、トルコなど15カ国に輸出され、総生産数は5,195機に達し、アメリカ製超音速戦闘機として最多生産記録を樹立した。ベトナム戦争では761機を失う大きな犠牲を払ったものの、空中戦での優位性と多目的運用能力でソ連のMiGシリーズを圧倒し、アメリカの航空産業と軍事ドクトリンを再定義した。F-4ファントムは、冷戦期の勝利を支えた「隠れた英雄」として今なお語り継がれている。













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