最近、SUPER JUNIORのチェ・シウォン、俳優チン・ソヨン、元Wonder Girlsのソンイェなど多くの芸能人が、銃撃で殺害された米国の極右系若手活動家チャーリー・カークをSNS上で追悼したものの、世論の猛批判を浴び投稿を削除する事態となった。

彼らは「政治的意図はなく、一人の命の悲劇的な死に対する哀悼だった」と釈明したが、議論は容易には収まらなかった。芸能人の社会的表現が大衆にどう受け取られるのか、また彼らの影響力に伴う社会的責任の重さがどこまで及ぶのかを改めて考えさせられる契機となった。
チャーリー・カーク氏は9月10日(現地時間)、ユタ・バレー大学で講演中に銃撃を受け死亡した。彼は保守系若者団体「ターニングポイントUSA」の設立者であり、ドナルド・トランプ前大統領の強力な支持者だった。生前、移民に対するヘイト発言、中絶や同性愛への反対、銃規制の緩和などを主張し、米国社会においても大きな論争の中心にあった人物である。特にその発言は少数者集団に対する差別を助長するものだとの批判を絶えず受けていた。
国内芸能人たちの追悼が問題視されたのはまさにこの点だ。たとえ一個人の死を悼む純粋な意図であったとしても、その対象が社会的に鋭い対立を生んだ人物である以上、大衆は単なる追悼以上の「政治的同調」と解釈する余地がある。批判世論は、芸能人たちがカークの極端な政治性向やヘイト発言を十分に理解せず軽率に追悼したことで、結果的に彼の思想に同調したり正当性を与えるような印象を与えたと指摘した。
論争が拡大すると当該芸能人たちは即座に投稿を削除し火消しに乗り出した。その後チェ・シウォンは「彼はクリスチャンであり一家の長であり一人の夫だった。いかなる状況であれ、大学生の前で講演中に銃撃で命を奪われたことは政治的立場を超えてあまりにも痛ましい悲劇」と説明し、ソンイェも「悲劇的な銃撃殺人で亡くなった夫を想う妻の訴えの映像を見て、母として胸が締め付けられる思いで追悼文を投稿した」と弁明した。
しかし一度燃え上がった議論は「誤解された失言」なのか「意図的な信念表明」なのかの間で疑問を残し、容易に消えることはなかった。実際、芸能人の行動が意図と無関係に政治的に解釈され論争となった事例は今回が初めてではない。過去にも多くの芸能人の服装やSNS投稿、発言などは、意図と無関係に、あるいは意図的に議論を呼んできた。これは芸能人の一挙手一投足が大衆の大きな関心を集め、ときに過度な政治的意味が付与される韓国社会の一断面を示している。
もちろん、自らの信念を勇気を持って示す「所信表明」の事例も存在する。社会的イシューに対して一貫して声を上げたり、特定の政治家を公然と支持して自身の政治的立場を明確にする芸能人もいる。憲法が保障する「表現の自由」は誰にでも等しく与えられる基本権であり、芸能人だからといって政治的見解を示せない理由はない。
しかし問題はその影響力を「どのように」「どこに」使うかにある。特にその追悼対象が青少年に偏った思想を植え付けたり、特定イデオロギーを盲目的に追従させる危険を孕む場合、懸念の声が上がらざるを得ない。今回のチャーリー・カーク追悼論争において、より高いレベルの社会的責任と慎重さが求められるのはそのためである。
特にSNSの発達によって芸能人と大衆の交流が活発になった今日、「いいね」ひとつ、短い一文の波及力は想像を超える。本人の意図とは全く異なる形でメッセージが歪曲されたり、社会的対立を増幅させる導火線となる可能性もある。「いいね」ひとつにも慎重さが求められる時代、芸能人の肩にのしかかる責任の重みは決して軽くはない。
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