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引用:YouTube
「火花が飛ぶ様子がとてもかっこよかった。大きくなったら、私もあんな仕事がしたいです」
今月初め、新潟県三条市の諏訪田製作所を訪れた。高品質なステンレス製爪切りで知られ、「爪切りのエルメス」とも呼ばれる。職人がすべて手作業で仕上げるため、主力製品の価格は1万円と高額だが、優れた耐久性で一生使えるとの評判が広がり、日本国内のみならず海外の観光客からも人気を集めている。
取材当日は、三条市近郊にある新潟大学附属長岡小学校の5年生およそ40人が、貸切バスで工場見学に訪れていた。
引率を担当した神林教諭は「燕三条地域には、ものづくりの精神に根ざした優れた企業が多く、工場内部を公開するオープンファクトリーも整っている」と説明し、「職人が働く姿は、子どもたちにとって教科書以上に価値のある教材だ」と語った。
今年創立100周年を迎える諏訪田製作所は、2000年代初頭、人材流出に悩まされていた。工場閉鎖の危機感が高まるなかで生まれたのが、「工場そのものを一つの見どころにしよう」という発想だった。
工場の壁を透明な窓にして外から作業の様子が見えるようにし、専用の見学ルートを整備した。1階には食堂とカフェを設け、手頃な価格で食事を提供。製造工程で出た余りの鉄を使ったさまざまなアート作品も制作・展示している。
オープンファクトリーの取り組みが評判を呼び、若い人材が徐々に集まり始めた。技を磨きながら働くことに誇りを持てる環境が整ったのだ。現在は30人余りの職人が働き、その半数近くが20〜30代と、工場全体が大きく若返っている。
日本でも「ものづくりの街」として知られる燕三条は、新潟県で隣接する燕市と三条市を合わせた呼称だ。両地域には従業員4人以上の企業が約1150社あり、関連産業に携わる人はおよそ2万9000人にのぼる。
燕三条の歴史は江戸時代初期の1610年頃に始まる。信濃川流域に位置するこの地域は洪水が多く、農業だけでは生活が不安定だった。そこで江戸幕府が生計手段として奨励したのが「釘作り」だ。釘を起点に金属加工技術が発展し、家内制手工業を通じて包丁やはさみ、やかんなど多様な製品へと広がっていった。
幕藩体制が崩壊し明治時代を迎えると、燕三条は洋食器の製造に乗り出した。研磨やプレスなどの金属加工技術を高度化し、差別化を図ったのである。現在、燕三条で作られた洋食器は、ノーベル賞の晩餐会で使用されるほど品質の高さが評価されている。
しかし、日本経済がバブル崩壊に見舞われた1990年代以降、この地域は急速に衰退していった。金属加工が「3K」(きつい・汚い・危険)産業と受け止められるようになり、若い世代に敬遠されるようになったためだ。
1個10万円をはるかに超える高級急須で知られる玉川堂の山田立番頭は、「1816年創業の玉川堂も、人手不足で廃業を検討せざるを得ないほど、当時は深刻な危機にあった」と振り返り、「その流れを一変させたのがオープンファクトリーだった」と語る。
山田番頭は「2013年に工場内部を一般公開して以降、若者の関心が大きく高まった」とし、「現在は21人が働いており、平均年齢は30代半ばだ」と説明した。
玉川堂では1日4回、時間を区切って工場見学を実施している。年間の来訪者は約7000人に上り、その4分の1を海外からの訪問客が占めるなど、国外でも高い人気を集めている。現在、燕三条地域でオープンファクトリーを運営する企業は30社余りに達する。
山田番頭は「毎年1~2人を採用しているが、30~50人ほどの応募が集まる」とし、「優秀な若者が働きたいと集まってくれるので、選考するだけでも大変だ」と語った。
1912年創業の「日野浦刃物工房」は、高品質な日本刀や包丁、狩猟刀などで知られている。ここで出会った三代目継承者の日野浦司は、「最初は斧作りから始まったが、現在は台所用の包丁を含む多様な製品を手がけている」と語り、「使いやすく、長く使える点が評価され、海外での人気の方が高い」と説明した。
また、「20年前にドイツを訪れた際、職人が受け継いできた手工業の多くが姿を消しているのを目にし、これが日本の将来像になるのではと感じた」と振り返り、「その後、技術や機能の魅力を分かりやすく伝えるオープンファクトリーを通じて、若者が戻り、事業を継承していくことが可能になった」と述べた。
新潟県の花角英世知事は「単に伝統を守るのではなく、革新的な創造を追求することこそが日本のものづくり精神だ」としたうえで、「燕三条のオープンファクトリーは、伝統技術を現代的に継承し、観光産業と結びつけることで地域発展を実現した好例だ」と評価した。













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